2014年04月24日

笑いについて

やっと続きを書きます。①については4月9日の日記を参照されたい。

 前回の日記のコメントで、「関西のボケとツッコミ」「雰囲気やノリで笑うことも」というお話をいただいた。これはきっと実に深い様相を含んでいます。簡単に片づければ、文化の心理的表出とか、笑いの集団感染とでも言えば良いのでしょうか。


 「関西のボケとツッコミ」は関西人として、通行手形のような役割も果たし、関西人としてのアイデンティティ強化、共同体の紐帯の強化機能を見事に果たしています。成員は能動的にその技術をみがき、機能させています。見事なものです。


 「雰囲気、ノリ」これはさらに難しくなります。集団心理理論や社会心理学で片付ければ済むかもしれませんが、それだけでは収まらない気がします。「雰囲気、ノリ」で私たちが笑うとき、笑うまでの経過、言語だけでなく、身体、そして、場の共有意識などが有機的に相当数、結びついた結果な気がするのです。幼馴染の3人とそうではない1人が会う。幼馴染が一斉に笑ってしまうことが、幼馴染ではない1人は笑えない。このような現象はよくあることです。ウェブ上の日記にしたって、「あの人もこれを読んで恐らく笑うだろう」とかってイメージできることもあります。


そうした共有意識は非常に重要です。特に社会的動物である人間にとっては共有意識の確認をする仕掛けは絶対必要です。


 「笑いについて①」で「必死さ」とのズレが笑いを醸し出すということを書きました。そのことを思い出しながら、共有意識について考えてみると、その時代、共同体、属性などにとって、何を必死にやる必要があり、何が重視されていたのかが見えてきます。仕事だったり、貨幣だったり、結婚だったり、異性であったり。チャプリンの時代であれば、「自由」であったり。



 「笑い」について。なかなか面白いテーマですね。

淫インモラル
RU486
妖姫



Posted by 花痴 at 18:05